「僕の自然王国」
 Vol.01 藤本敏夫


南房総の里山をゆく
霧のような雨だ。六月の午後。南房総鴨川嶺岡の山中。山仕事の往き帰りだけで踏み固められた糸のような道を歩いている。水蒸気が外界の音を吸い取って、聞こえるのはただ、自分の足音だけだ。僕の体力では、杉木立の途切れる時と息の乱れる時はいつも同時で、それから十歩も行かぬうち、突然視界が開ける。六段に重なる棚田が花みずきの向こうに現われ、 がんこ山からの風が上の田から下の田へと吹き抜けてゆく。汗と共に理念も消える。風景は目から入って、網膜に写し出されているだけではなく、耳や鼻や皮膚をも通して、一瞬のうちに心を埋めつくすかのようだ。

田の奥は靄っているが、緩やかなカーブを描く畔には紫陽花が背を低くして群れ立ち、柔らかな稲の葉先が緑のさざ波のように、棚田一面を揺らしている。晴れた日には、遮るもののない大気の中を、太陽は矢のように突き抜けて膚を差すのだが、今は幾重もの湿潤のカーテンが引かれて、僕はまるで産衣に包まれているように感じた。

里山の「隠された時間」への道
この村の名は大田代。二一軒の農家が海抜三百メートルの丘陵中腹に肩を寄せ合っている。若者はいない。一番若い働き手が四十才台後半で、大半の村人が六十才以上の高齢者だ。息子や娘達が帰ってくる保証はなく、爺さんや婆さんたちは先代から引き継いだ田畑をかろうじて守りながら、里山と対話して生きている。

日本の山村の多くがそうであるように、過疎と高齢化に裏打ちされた自然死が大田代にも忍び寄っている。六月の音もなく降る雨の中、眠ったように静かな村のたたずまいを眺めながら、同時に僕の目はその底に浮かび上がる幾本もの自然王国への道を見ているのだった。自然王国への道は集落の上に不規則にねじれながら弧を描き、どこから自然王国であるのか、どこまでが大田代であるのかが判然としない。ただその道は時間の襞と空間の起伏を複雑怪奇に縫いとりながら延びており、里山との境で消失する。消え失せるとはいっても、道が切れてなくなったかどうかは定かではない。あるのか、ないのか、何がどうなったのか、全く分からない世界に接続したとしか表現できないので、道は「混沌」になったというべきなのだろう。しかし、その混沌そのものが里山に息づく長い長い「隠された時間」を手に入れるための唯一の道に連なっているのに、僕も含めて訪れる人の多くはそのことに気付くこともなく、単に坂道の登り降りに息を切らせているだけなのだ。

「失われし時間」との対話
「隠された時間」とは人類のオリジンとでもいうべき人間の原初的生活のことである。それは謂ゆる進歩史観が語る原始的生活を指しているのではない。原初的生活は透明な宇宙的直観に支えられた精神の深みに導かれており、その精神の深みは人間の「霊性」と呼ばれるものであった。

さて、「隠された時間」「原初的生活」とは具体的にいえば、森と草原の接点における数百万年の人類の歴史のことだといえる。森で聖なる類人猿と訣別した先人は、過去に経験することのなかった魂の変歴を通して、恐怖より遙かに心を揺すぶられる畏怖の世界に対面する。この畏怖の世界が人間の霊性の震源であり、「隠された時間」の本質なのだ。私達の深層を読みとくために、とても大事なことなのだが、この畏怖の世界こそが幾多の文明を経てウォーター・フロントに群集した現代人の心の襞に、いつも潜んでいたものであった。その「隠された時間」への切ない思いは、ヨーロッパ世界では絶対的な神への帰依に連なるものでもあったが、畏怖の世界を失った近代が、物質的な功利性のみの追求にその身をゆだね続けるとすれば、かのジョージ・ルーカスは、まだこれからも何百回となくインディ・ジョーンズを世に送り出さねばならなくなるに違いない。十戒の「失われし聖櫃」や「魔宮の伝説」に封印された秘宝サンカラストーンや「最後の聖戦」で地底に沈んだ最後の晩餐の聖杯を求め、争い、そして自らを失った現代の実相を劇場ではなく、わが身の物語として見つめねばならないと思う。

自然王国とは感んずる心
そのための舞台の第一幕は森と草原の接点たる里山であり、自然王国はそこに隠された「失われし時間」と対話するためのベースキャンプなのだ。 そして、そのベースキャンプは里山を客観的に見る位置にしつらえられた造成地ではなく、里山そのものに内在する歴史への同化の衝動と、里山の中に自らを見つける思いである。従って、自然王国とは結局、感んずる心、エコロジカルマインドであると単純明解に考えたいのだ。

そう、本当は全てが表現され、表出されており、僕達の目の前に露出している。しかし、残念なことに前頭葉が宇宙の生々化育を理論づけてしまうのだ。理論は現実を抽象化し、その時、現実は現実でなくなる。そのようにして人間は森と草原の接点に生まれた時以来、現実を喪失し続けてきた。「隠された時間」、「原初的生活」、「失われし時間」とは「失われし現実」のことである。全ては心の中にあり、世界は心の中に生じ、そして、万物は流転する。

僕の自然王国は一九八六年に生まれた
僕が南房総山中に迷い込み、里山と山村に隠れていた「失われし現実」を垣間見たのは一九八三年の秋であった。「失われし現実」は老練にも、僕が何重にも張りめぐらせたブロックを掻い潜り、感ずる心を虜にしてしまった。勿論、何年も前から感ずる心が「失われし現実」に出会うことはあったが、それはいつも突然の出会いで、いわばゲリラ戦の如きものであった。しかし八三年の「失われし現実」の登場は正規軍の進撃のような感じがして、多分僕はとてもうろたえ、抵抗する気力を半ば喪失してしまったのだ。遺伝子の命ずるままに、つまり自発的な強制力に引きづられて、里山と山村の境に土地を求め、何やら怪しげなその一帯を「自然王国」と名付けて移り住むこととなった。それは、迷い込んでから三年後の一九八六年のことであった。

東京の「今」の向こう側に
それは楽しい時間と空間であった。
東京は明るく、豊かさと便利さに満ちて、目眩がするほど魅惑に溢れてはいたが、自己啓発を武器にした「失われし現実」との対話を導いてはくれなかった。しかし、東京の先端の質こそが里山を要求していたことは事実で、僕は東京の「今」が命ずるままに行動したといえるのだろう。

生産力主義から見れば、「過疎」「荒廃」として具象している里山のマイナスは、「健康」と「教育」に露出した都市のマイナスとかけ合わさって、巨大なプラスに転換する可能性を秘めている。僕達はこの可能性に賭ける必要があると思う。東京の延長に、つまり「聖櫃」や「秘宝」や「聖杯」の追求に未来はない。しかし、東京の「今」に背を向けて過去の共同体を夢みるのはやめた方がいい。必要なことは、東京の「今」を突っ切って、その向こう側に出ることだ。里山こそがそのための力を僕達に附与してくれる。

流れの中にある美しい時間
自然王国の回路を通して「失われし現実」と対話すれば、大きな大きな流れの中に在る自分を取り戻せるだろう。その流れのままに生きてゆけば、東京の「今」を突破することができる。「最後の聖戦」は万能の「聖杯」を地底深く埋もれさせ、インディとヘンリー親子の愛情に未来を託して結末を迎えた。愛は生命の確認であるといえるが、生命は流れそのものだから、全てが淀みなく流れていることこそが、真の「聖杯」なのだろうと思う。そういえば、少年の日の時々に体感した、あの切ない充足感こそ、流れていることの知覚であり、「失われし時間」そのものであったような気がする。

六月の午後。自然王国に降る雨は、音もなく野や山に吸い込まれて、四界は宇宙創成の時のように靄っていた。それは美しい時間であった。


 

 
 


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