帰農塾 参加者 レポート 
KINOUJUKU SANKASYA REPORT
11月5日〜6日 里山帰農塾 11月 〜森〜  
 
2010.11.7 更新日 2010.11.15

鴨川自然王国という人の輪
N.O

 鴨川自然王国の存在を知ってから今回の年4回目里山帰農塾に参加に至るまで、多くの人々と知りあうことができた。たぶん、7〜8年前にマスメディアを通じて王国の話を聞いたのだろうがその時は自分のネットワークのひとつに加わればいいなと思っていた程度だった。
 11月の帰農塾のテーマは「森」だった。炭焼きがメインイベントで私にとって初の体験になる。5月、テーマは「医」。田植えの実習。7月、「食」。豆腐つくり。9月、「命」。稲刈りと鶏の解体。そして今回は炭焼きの他にそば打ちの実習があった。各回いずれも人生の中で未経験のことばかりであり、今後やってみたいこと、役に立つことばかりだった。
 それぞれ教えて頂いた先生は地元に根を張って暮らしている人たちだ。この方々だけでなく座学という講義を受け持つ講師陣とも間近に接し、一年を通じ顔馴染みになることができ、私の友人という財産とすることが出来たと思う。これも故藤本敏夫氏が作り上げ遺された人の和=輪があったからこそ、私もその輪の中に入ることが出来、新たな輪ができたものと思う。
 毎回、講義に比較的重心があり、かなり高度な知的レベルの内容だが、その講師陣も二日目の夕食からアルコール入りの懇親会によって本当に打ち溶けた人達となる。ここでしか知りあえない様な、ある道の先人たちである。経験も豊富だ。世界をまたにかけての旅の体験を活かして鴨川での暮らしを始めた人。各界において名声を得ていながら当地での農的生活に入っている人。様々な色合いの人達が居て、私のネットワークは飛躍的に拡がりそうだ。
 三日目の移住者訪問では、今回も非常に刺激的な人に会う事が出来た。三年前、偶然のようにこの地に移り住んだ30代の若い夫婦。孟はテント生活から始まり、現在も家づくりの過程にあり、その間に出産まであり友人も加わってメンバーが増えている一種の運命共同体だ。夫人の言葉が印象的だった。両親の反対を押し切り、まるで崖から飛び降りるようにここでの生活に入ったという。その説明を補足し、夫が言った。飛んでみたら羽が生え、飛ぶことができた、と。実際夫ひとりを頼りに飛び込んだ暮らしが自分達を理解できる人がいることが分り、次々に理解者が増えていったとのことだ。反対していた夫人の父親が出産を契機に許したそぶりを見せたとの話は感動的ですらあった。彼らの標語にHappiness is journey Not a destinationとあったが、ジャーニーとはどこか目的地を定めての旅行ではない。彼らもまた、いつかここを去る日が来るのかも知れないが、人の輪=和の良い余韻を残してどこかで新しい人間関係をつくる旅に出ることだろう。私もまた、これからもたくさんの人の輪をつくっていきたいと考えている。


里山帰農塾卒塾
A.Y

 7月、9月、11月と3回連続で参加させて頂きまして、今回、来年からの移住先と研修先を決め、「帰農」の道を歩き始めることになりました。これで帰農塾は卒塾ということになりますね。来年からはスタッフ側から関わらせて頂きます。よろしくお願いします。
 今回、移住先と研修になることを決めるにあたって、参加前からどうこうしようと決意しようとしていたわけではなりません。ただ、流れに身をまかせてみただけ。それでも、自分の準備ができていたからだと思います。
 今回一番の印象に残ったのは、LOVE & RICEのおふたりでした。 主人は方の力がぬけてリラックスし、でも自信に満ち奥さんはいたって「普通」=田舎くらしバリバリではなく、農家のおばちゃんでもなく、かわいらしい女の子でした。ご主人はともかく(笑)、都会の生活に適用できていた奥さんが田舎の農的生活を自由に楽しんでいることは、今都会にいる「普通」の人々が農的生活をする可能性の大きさを感じましたし、そのプロセスも非常に参考になるものでした。
 この見晴らしの良い素晴らしい景観と、美味しい食事を毎日あじわえること、そしてあたたかく楽しい「かわり者」達の仲間の一員になること、これからの人生も毎日楽しく幸せです。ありがとうございます。


里山帰農塾 〜森〜
R.M

 里山帰農塾も「医」、「食」、「命」、「森」と四回目を受けることとなり、前回の参加したことを
思い返しながら現在の自分を見つめ直してみて余りに大きな変化は生じていない自分を感じています。
 一つにはテーマとしては四つの区分に分かれてはいるが、実際の内容は一回事の参加を前提としてのカリキュラムとなっている為と思います。
 二つ目には自分が前もって参加する前にこの里山帰農塾に期待する何かをどこまでかと言う事が余り課題にしてはいなかった事も考えます。
 三つ目にはある程度の期間を持って農的生活に移ると言う事にも必要と前職から判断していたこと。
 四つ目は実生活において家族の構成を変えていくには現状では非常に無理がある。
 しかし、そうは言ってはみても参加するたびにわずかな労働体験の中でも体全体で感じとる充実感もあり、土を掘り起こす、雑草を抜き取る。苗を自分の手で植えるける。この実感は言葉では言い表せない。体験でもあったのでますます興味が沸いて来ている自分を感じているのも事実です。
 また、毎回の事ではありましたが、移住者訪問コーナーでの話は活字では得る事が、できない、本当の話しが聞くことができた事が、今後の自分にものすごく影響を与えられていると感じています。移住者それぞれ年代も職も異なってはいましたが、共通して感じた点は皆さん移って来た時点は余り深く考えてはいない様に受け取れた事です。深く考えていないと失礼のようですが、前向きに各々が行動された結果が今の様子になってきている。これからも一日を大事にする事が必要で毎日を生活していると言う説明と判断することが出来ました。
 自分にとってもこれからの日々がどのように進めて行くかを切実に感じている毎日でありますので、皆さんのお話しを参考にしながらも自分なりに近い将来の自分の行動に移していきたいと思います。


農的生活への勘違いと第一歩
R.H

 私はとても大きな不安を抱えて生きてきた。社会に出て働くようになり、頑張って働く人々の姿を見たり仕事への意欲に触れたり、それらに感化され励まされ大人になっていく自分をただ嬉しく思えていた時期、その不安を私は忘れていた。でも、冷静になり、働くとは一体何なのかを考え始めた時、そして何故自分がそんなこと考えるようになったのかを考えた時、再び猛烈な不安、今こうして日々を過ごしていることへの激しい違和感が始まった。会社へ行っても仕事にならなくなった。何に自分の心が反応して生きているのかも本当に見失ってしまった。救いを求めて、色々な本を読み、人の話を聞くうち、自分が随分と無理をして、自分の心を無視して生きてきたということを理解し始めた。ゼロに戻ろう。全てやり直そう、今までの自分を抱えてもう一度新しく生まれよう。そう決めて里へ戻った。
 新しく生きているうち、自分の足元が気持ち悪いと思った。自分がこれから情熱なり愛情を注ぐべき対象を思うように見つけられないことへの苛立ちや焦りの中に、異質な気持ち悪さがあった。それが、日本のあり方に対する大いなる疑問だった。
 これから日本はどいうなるのだろう。政治、経済、環境、全て日本という一つの国の中に実に様々な分野がある。それなのに、それらの関係性の希薄さは、どういうことなのだろう。日本の土台が崩れかけている。それが不安だ。
 土台は一つ。日本の国土である。では、その上に立つ国民として、私は何ができるだろう、何を純粋に求めるだろうか。その先に、自分と今回の場所があった。
 想像以上に、「次世代」な空間だった。王国の人々だけでなく、既にそこで生活をスタートさせた人達の、なんと正直であり、寛容であり、そしてこれからへ向けて勤勉であり、目の開かれていることか。
 日本の事を案じながらも、いかに自分が今の与えられ消費する環境に甘んじ、それを欲しているか、そのことをしみじみと自覚させられ、周りの人達との間に、大きなギャップを感じずにはいられなかった。
 ただ、最後の意見交換の中で、農的生活=物を失っていくということではないのだとわかった。問うべきは、在り方だと。
 根底での志を同じくする人々のエネルギーはなんてパワフルで頼もしいのだろう。自分の心の中に小さな芽が生えた今回の参加であった。
 無理がくることなく、この在り方が広がっていくことをとても楽しみにしているし、自分の目も着実に育っていきたいと思う。


帰農塾で夢ができました。
T.K

 まず今回もおいしい食事を毎食作ってくださった石井さんにお礼申し上げます。自分の身体に良い食事をいただけること程、幸福なことはありません。実際に自分が健康になっていくことを実感しております。石井さん、本当にありがとうございました。
 今回の帰農塾でも沢山のことを学びましたが、最初に言いたいことは、「まず手を挙げてみよう!」ということです。今まで農的生活にあこがれていながらも、現実の生活とのバランスをどうとるか、ということで迷っている事が多くありました。自分が失敗することへの怖れもあって、口に出すことがなかなかできずにいました。しかし、これからはまず自分の意思をはっきり言おうと思います。結果は気にする必要はないと思います。自分には現実の生活を維持するとか、向上させる責任がある、という言い方は言い訳にすぎないということがようやく分かってきました。
帰農塾とはいったん、お別れする事になりますが、これからも自然王国のイベントにはできる限り参加しようと思っています。今年の帰農塾で知り合った先生方、スタッフ、同期生の方々とまたお会いしたいのです。そして土とふれ合う時間をこれからもっと増やしていきたいと思っています。
 また帰農塾では、単に自分の農的生活への動機だけでなく、地球環境や社会の在り方、問題点等についても多くの事を教えていただきました。食生活や電磁波の問題など、自分だけは大丈夫と思っていても子供達の今後に深刻な影響を与える問題があります。私は、これからは自分の声をあげて、子供達に悪い影響を与えることには反対したいと思います。「快いこと」が必ずしも子供達に望ましい事とは限りません。本当の意味で健康的な生活を送ることが出来る子供達は、たくましい大人になると思います。
 帰農塾では、学習や交流会を通じて沢山の友達もできました。これもありがたいことです。これからもネットなどを通じて、友達の輪が広がっていくと思います。金持ちになることよりも友達ができることの方がはるかに幸福だということも教えていただきました。
 思いがけないことに、私よりはるかに若い方々からも沢山教わることがありました。
 これからはまず家では家庭菜園でわずかずつでも野菜を作っていきます。またオーナー制度などを利用して米づくりもやってみたいと思っています。自分の食べるものを自分で作ってみるのはとても楽しいですね。
 そして私の夢は、これから十年以内に古民家を改造して家づくりをしたいです。実現してもしなくても、その夢を語り続けます。
 途中で病気になったり、ガンで死ぬかもしれないけれど、夢をもっていれば惨めな気持ちにはならないと思うのです。帰農塾ではそんな勇気を与えていただきました。ありがとうございました。


今回自然王国に参加して  千葉県鴨川自然王国にて
T.I

 加藤登紀子さんの土と大地の祭典(土と平和の祭典)に本年10月17日(日)に参加 コモンズのブースで石美里氏のアシスタントをし電通時代の旧友柳瀬広秀氏と再会、またサヨコオトトナラのOTOとも10年ぶりに出会うことができたことのみならず、加藤登紀子氏、八恵さんコンサートに観客として参加させていただきました。
 2005年6月に(株)電通プランニングプロデュースを主管として早期自立支援の退職。25年における4半世紀のサラリーマン生活におわりをつげる。
 肉体的に疲労がかさなり2004年6月〜2005年5月まで那覇に移住。地元メディアとの交流音楽を中心としたイヴェントに参加したが一年で東京に戻る。
 それから88才と85歳の両親と品川高輪故石井好子氏、朝吹三吉氏邸に隣接した高輪スカイマンションに戻る。
 家族は早稲田高等学校経論の弟が池袋に別居。兄弟とも独身で結婚は今はしていない子供はいない。
 ひとりっ子政策とはいいえ、これから子孫が途絶えることの不安は両親からもいわれ、退職金積立金の一部で神戸市に95年の震災後サンフェニックスマンションの経営に参加、同時に地元コミュニケーションを中心としたコミュニケーション会社(株)万国通信社を母会長、父社長、弟、小生取締役として設立。2008年から軌道に乗ってきた。
 私はさきほどの総括のディスカッションでも述べたように地域コミュニケーション一対一品運動いらい農的生活のプランニングをしてきた。身体的には林間学校などをプランニング、ランドスケープデザイン。及び、イヴェントの実施とともに主催者側、参加者側双方の立場で参加・企画・立案してきた。
 今回初めてフィールドワークに参加し、かねてから尊敬しえいた言語学者、エスペランティストの梅棹忠夫の本年の死去に心を動かされ、大いに覚醒したことなどから自恃の気持ちを持って今回参加した。
 
 参加者の年齢層のぶあつさ、人間同士のふれあいにあらためて感動を覚えた。
 また枕頭の書としてエコフェスティスティバルと(株)木楽舎<ソトコト>発行人小黒一三氏と発案していらい手放さなかった「やまももの木に抱かれて」藤本敏夫著にえがかれている場所を目前にし、意想外のスケールに驚きとともに身と心がひしつまる、戦慄を覚えた。
 三日間にわたる素晴らしい体験、心と体との一体感との確かな生命の実感と肌身にしみて感じさせていただきました。
 末筆ながら今年善寿と迎えた父が一月一回非後援者山口会長とキエフ会長加藤氏と会合と楽しみにしている含縁奇縁と邂逅不可思議さまたゆっくり参加させて下さい。ありがとうございました。
多謝


第36回 里山帰農塾 レポート
おけいはん

 加藤登紀子さんの歌に‘棘あるバラ’という曲がある。鴨川に移住して農的生活をはじめようとする藤本さん。何もかも捨てて、鴨川で生きることを選択するには、当時の登紀子さんは大きすぎるものを背負っていた。では別々の人生も覚悟しなくてはいけないわねという状況の中、作られたと聞く。手元に歌詞カードがないのだけど、こんな歌詞だったと思う。

 棘あるバラのような そんな女だと
 別れてゆく男たちは みんなそういうわ
・・・
 私が愛したあなたでさえ 造花のような女を求めるの

 しかし、今鴨川でくらす女に、造花のような観賞用のただあなたに従います的な女はいなかった。
 廃車になったバスを家にして、まるで子供たちの作る秘密基地の様な場所を、今回里山見学ツアーで訪ずれた。
 最初、ご主人が色々説明してくれていたが、私はその基地の様な家に赤ん坊を抱いて、王国のスタッフさんと談笑する女性が気にかかった。らくだ色のコーデュロイのワンピース、茶色のタイツの上にさらに濃いレギンス。ワンピースの中からは少しくたびれた紺のインナーが顔をだし、黄緑色の太いヘアバンドをする、童話に出てきそうな女性。彼女の姿に釘付けになった。
 思い切って、彼女の話を聞きたいと頼んでみた。
 間近で見る彼女の服は、一つ一つを見たら、よく言えばシンプルで個性的。悪くいえば、どれも差し色の様に合わせる服。しかし、彼女の着こなしは絶妙で、組み合わせ方一つでこんなにおしゃれなのかと驚いた。
 しかしそれ以上に驚いたのは、彼女はこの生活に入る前は四人家族で横浜の住宅街に住み、姉妹の妹で、栄養士の仕事をしながら、たまの休みには女友達と海外でバカンスを楽しむような、都会にありふれた女だったこと。
 ご主人に唆されて、仕事を辞め、荷物一つで家を出た夜、彼女のお母さんが泣きながら門のところまで引き止めに来た。20m先の電柱の先でそれを眺めていたご主人の目にもその光景が心に焼きついたそうだが、彼女にとってのその20mは彼女がそれまでに経験したどんなマラソンよりも長かっただろうと思う。
 今はご家族とも和解され、子供にも恵まれ、いろんな苦労を感じさせない程、彼女は彼女らしく生きている。きらきら輝く大きい瞳に太い眉。そしてかわいらしい彼女の微笑む口元からのぞく、黄色い歯が、私には子供のころ好きだった美しい色の石のように見えた。彼女はまるでたんぽぽの花のようにかわいらしく、フワフワした雰囲気をだしながら、やはりたんぽぽの様に、地に足を根強く張っていた。
 鴨川で私が見た女は造花のような‘女らしい’女ではなく、どんな原野にでも根をつけて、美しい花を咲かせるたんぽぽの花だった。
 そんな野に咲くたんぽぽに、私はなりたい。



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